AIが書いた論文を、AIが査読し、AIだけが読む時代が到来しようとしている。
研究者は年間90億ドルの論文処理料を支払い、出版社は38%の利益率を享受する一方で、人工知能が学術出版の全工程を担う「完全自動化」の危険性が現実味を帯びてきた。2025年7月、The Guardian紙に寄せられた研究者・出版社からの緊急提言は、科学研究の本質そのものが機械的な論文生産システムに置き換えられる脅威を警告している。
エルゼビア等の大手出版社が記録的利益を上げる裏で、人間の知的好奇心に基づく真の研究活動は消失の危機に瀕している。王立協会やケンブリッジ大学出版局が2025年秋の抜本的改革を予告する中、学術出版システムの破綻は単なる経済問題を超えて、人類の知的進歩そのものを脅かす存在となった。
From: Scientific publishing needs urgent reform to retain trust in research process
【編集部解説】
学術出版界が直面している危機は、単なる「論文が多すぎる」という量的な問題を超えて、研究エコシステム全体の根幹を揺るがす構造的課題となっています。今回のThe Guardian読者投稿は、この問題の複雑さと緊急性を浮き彫りにしています。
異常な利益率が示す構造的問題
現在の学術出版システムの最大の問題は、研究者のキャリア評価と出版社の収益モデルが完全に一致してしまっていることです。大手学術出版社の利益率は30-40%に達し、これはApple(28.2%)やGoogle(23.5%)をも上回る水準となっています。
特にエルゼビアの場合、2023年の査読付きジャーナル収益は38億ドルに達し、利益率は38%を記録しています。この数字は、公的研究資金が民間企業の株主利益に転換される構造を如実に示しています。研究者は昇進や資金獲得のため「量」を重視した論文発表を強いられ、出版社は論文数が増えるほど利益が拡大する悪循環が生まれています。
論文処理料の急激な増加
オープンアクセス論文に課される論文処理料(APC)の負担は深刻化しています。2019年から2023年の5年間で、研究者は主要6社に約90億ドルを支払い、年額は3倍に増加しました。個別の雑誌を見ると、NeuroImageは3,450ドル、Journal of Informaticsは3,960ドルという高額な処理料を設定しています。
カリフォルニア大学とエルゼビアの転換契約では、大学が年間1,100万ドルを負担し、研究者もAPC費用の一部を負担する結果、実質的な支払総額は1,800万ドルに達すると推定されています。これは従来の購読契約から大幅な負担増を意味します。
Plan Sの限界と予期しない副作用
欧州主導のPlan Sは、研究のオープンアクセス化を目指す野心的な取り組みでした。しかし、実際の効果は限定的で、意図せず大手商業出版社の市場支配を強化してしまった側面があります。
「read and publish」契約という仕組みは、実質的に従来のビッグディール契約をさらに拡大したものとなり、小規模な学会系出版社を市場から締め出す効果を生んでいます。出版社は制度を自社利益のために歪曲し、さらなる収益拡大に成功しています。
代替モデルとしてのSciELOの可能性
一方で、ラテンアメリカを中心とするSciELOモデルは、営利を目的としない学術出版の実現可能性を示しています。このモデルでは、国家レベルでの研究政策として学術出版を位置づけ、多言語対応と地域の研究多様性を重視した運営を行っています。
SciELOの特徴は、分散型ネットワーク構造により運営コストを抑制しながら、研究者や機関の自主性を保護している点にあります。Global Diamond Open Access Allianceが支援する他の非営利モデルも含め、現在の集中型商業モデルとは正反対のアプローチが注目されています。
AI時代の新たな脅威
生成AI技術の台頭は、学術出版に新たな複雑さをもたらしています。AIが論文執筆から査読、読解まで一貫して行う「完全自動化」の可能性は、科学研究の本質的意味を根底から問い直す事態を生み出すでしょう。
人間の知的好奇心と発見の喜びを基盤とする研究活動が、機械的な論文生産システムに置き換えられる危険性は現実のものとなりつつあります。今回の投稿でも、この問題が深刻な懸念として指摘されています。
研究者による直接行動の拡大
2023年には、エルゼビアの高額なAPC料金に抗議して、NeuroImageの編集委員会全員が辞任するという前代未聞の事態が発生しました。また、Journal of Informaticsの編集委員会も同様の理由で一斉辞任し、より公平な資金調達モデルを採用した新しいオープンアクセス誌「Quantitative Science Studies」を創刊しています。
これらの動きは、研究コミュニティが商業出版社の搾取的な慣行に対して、もはや黙認しないという強いメッセージを示しています。
長期的な影響と展望
この問題の解決には、研究評価システムの抜本的改革が不可欠です。王立協会が2025年7月に開催した会議では、次の10-15年間での大きな変革の必要性が議論されました。
重要なのは、大学、研究資金配分機関、そして政府レベルでの協調的行動です。個別の対症療法では、既得権益を持つ商業出版社のビジネスモデルを根本的に変えることはできません。
ケンブリッジ大学出版局が2025年秋に発表予定の包括的改革提案は、この業界全体の転換点となる可能性を秘めています。しかし、真の変革には研究コミュニティ全体の意識改革と、公的機関による強力なリーダーシップが求められるでしょう。
日本の研究界への示唆
日本の研究者にとっても、この問題は他人事ではありません。2017年時点で日本の大学は学術誌購読に約350億円を支出しており、国際的な学術出版システムに組み込まれた以上、グローバルな改革の行方は日本の研究活動にも直接的な影響を与えます。特に若手研究者のキャリア形成において、質重視の評価システムへの転換は急務といえるでしょう。
【用語解説】
論文処理料(APC:Article Processing Charge)
研究者が学術論文をオープンアクセス誌に掲載する際に支払う費用。現在2,000ポンド〜10,000ポンド程度が相場で、一部の雑誌では3,450ドル〜3,960ドルと極めて高額。
ピアレビュー(査読)
学術論文の品質を保証するため、専門家が論文内容を評価・審査するシステム。現在は投稿論文数の急増により制度が過負荷状態にある。
転換契約(Read and Publish契約)
従来の購読契約からオープンアクセスへの移行を目的とした出版社と機関間の新型契約。購読料とAPC費用を統合するが、実際には大幅な負担増となるケースが多い。
ダイヤモンドオープンアクセス
読者も著者も費用を負担しない完全無料のオープンアクセスモデル。公的資金や機関による運営費支援で維持され、SciELOがその代表例。
【参考リンク】
王立協会(Royal Society)(外部)
1660年設立の英国王立科学アカデミー。学術出版の未来会議を開催
SciELO(Scientific Electronic Library Online)(外部)
ラテンアメリカ中心の非営利学術出版ネットワーク16カ国が参加
ケンブリッジ大学出版局(外部)
1534年設立の世界最古級大学出版社。2025年秋に改革報告書発表予定
Plan S(cOAlition S)(外部)
2018年開始の欧州主導オープンアクセス推進イニシアチブ
RELX(エルゼビア親会社)(外部)
学術出版大手エルゼビアの親会社。2023年利益率38%を記録
【参考記事】
学術出版社エルゼビアが掲載料引き下げを拒否したため学術委員会の全科学者が辞任 – GIGAZINE(外部)
エルゼビアNeuroImage誌編集委員会の全員辞任事件を詳報
6つの科学雑誌出版社が学者を搾取したとして告発される – Vietnam.vn(外部)
大手出版社6社への集団訴訟と100億ドル超収益の実態を報告
学術出版のビジネスモデル図解とその構造の原因についての考察 – note(外部)
大手出版社30-40%利益率の構造的原因を詳細分析
カリフォルニア大学、エルゼビア社との転換契約を発表(外部)
全米最大規模オープンアクセス契約の経済構造と問題点を詳述
潮流は普遍的で公平なオープンアクセスに有利に変わっているのか?(外部)
編集委員会一斉辞任と公平な学術出版モデルの可能性を検証
【編集部後記】
AI時代の学術出版が直面している危機は、私たちinnovaTopia読者にとって極めて身近な問題です。皆さんが日常的に参照する技術文献やイノベーション関連の研究論文の多くが、すでにこの「量産システム」の影響を受けている可能性があるからです。
特にAI・機械学習分野では、ChatGPTやClaude等の生成AIを使った論文執筆が急速に普及しています。しかし、それらの論文が本当に人間の創造性と洞察に基づいているのか、それとも単なる統計的言語処理の産物なのかを見極めることは、もはや困難になりつつあります。
テクノロジー業界で働く皆さんにとって、この状況は二重の意味で重要です。一つは、自社の技術開発や戦略決定の根拠となる学術情報の信頼性が揺らいでいること。もう一つは、AI技術の発展そのものが、その検証プロセスを自動化によって形骸化させるという逆説的な問題を生んでいることです。
「未来を知りたい、触りたい、関わりたい」という皆さんの知的好奇心こそが、この機械化された論文生産システムに対する最大の防御壁だと私たちは考えています。ぜひコメント欄で、皆さんが実際の現場で感じている「AI論文」の実態や、技術情報の質に関する懸念を教えてください。真の技術イノベーションを見極める目を、一緒に養っていきましょう。
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