ジョンズ・ホプキンス大学の研究チームが2025年7月20日に発表した研究により、統合失調症と双極性障害の患者の脳保護膜である脈絡叢でC型肝炎ウイルス(HCV)の痕跡が発見された。研究はTranslational Psychiatry誌に掲載された。
研究チームはスタンレー医学研究所コレクションから統合失調症、双極性障害、重度うつ病患者と健常者の死後脳サンプルを分析し、Twist包括的ウイルス研究パネルを使用して3000種類以上のウイルスを検出した。脈絡叢で13種類のウイルス種が確認されたが、統計的に有意な関連を示したのはHCVのみであった。
さらに2億8500万人の患者データベースTriNetXを分析した結果、統合失調症患者の3.5%、双極性障害患者の3.9%でHCVが検出された。これは重度うつ病患者(1.8%)の約2倍、健常者(0.5%)の7倍の数値である。海馬サンプルではウイルス痕跡は発見されなかったが、脳膜にHCVを持つ患者では海馬の遺伝子発現に変化が認められた。
研究責任者のサルベン・サブンシヤン神経科学者は、抗ウイルス薬による治療可能性を示唆した。
From: Virus Traces Discovered in The Brain Lining of People With Schizophrenia
【編集部解説】
この研究が画期的である理由は、長年「仮説」に留まっていたウイルス感染と精神疾患の関連性について、初めて物理的証拠を提示した点にあります。従来の研究では統計的な相関関係は示されていましたが、実際に脳組織でウイルスの痕跡を発見したのは今回が初めてです。
脈絡叢という「盲点」への着目
研究チームが脈絡叢に注目した理由は戦略的でした。これまでの研究では脳実質(脳の本体部分)でウイルスを探していましたが、ほとんど見つからなかった経緯があります。脈絡叢は血液脳関門の一部を構成し、脳脊髄液を産生する重要な構造ですが、同時にウイルスが標的としやすい場所としても知られていました。
実際、今回の研究でも海馬(記憶や学習に関わる脳領域)ではウイルス痕跡は検出されませんでした。これは脳の保護機構が正常に機能していることを示していますが、興味深いのは脳膜にHCVが存在する患者では海馬の遺伝子発現が変化していた点です。
技術的革新がもたらした発見
この研究の技術的な核心は、Twist包括的ウイルス研究パネルの活用にあります。3000種類以上のウイルスを同時検出できるこの技術により、従来の手法では見逃していた微量のウイルス痕跡を捉えることが可能になりました。これは精密医療時代における診断技術の進歩を象徴する事例といえるでしょう。
統計の背後にある重要な示唆
2億8500万人という膨大な医療記録データベースの分析結果は、単なる数字以上の意味を持ちます。統合失調症患者の3.5%、双極性障害患者の3.9%でHCVが検出されたという数値は、健常者の0.5%と比べて7倍という高い比率です。
重要なのは、薬物使用という交絡因子を考慮してもなお、重度うつ病(1.8%)との間に明確な差があった点です。これは単純な生活習慣や行動パターンでは説明できない、より根本的な生物学的メカニズムの存在を示唆しています。
治療パラダイムの転換可能性
サブンシヤン博士が示唆する抗ウイルス治療の可能性は、精神医療に革命をもたらす可能性があります。現在の精神疾患治療は主に症状管理に焦点を当てていますが、根本原因であるウイルス感染を治療することで、一部の患者では症状そのものを除去できる可能性が浮上しました。
C型肝炎は現在、直接作用型抗ウイルス薬(DAA)により95%以上の治癒率を達成できる疾患です。この治療技術が精神疾患の一部にも応用できる可能性は、医療の新たな地平を開く可能性があります。
長期的な医療への影響
この発見は精神医療における診断・治療プロトコルの見直しを促す可能性があります。将来的には統合失調症や双極性障害の診断時にウイルス検査が標準的に組み込まれる可能性も考えられます。
また、予防医学の観点からも重要な示唆を提供しています。HCV感染の早期発見・治療により、将来の精神疾患発症リスクを軽減できる可能性が示唆されているのです。
課題と今後の展望
一方で、因果関係の方向性についてはさらなる研究が必要です。HCV感染が精神疾患を引き起こすのか、精神疾患がHCV感染のリスクを高めるのか、あるいは共通の脆弱性要因が存在するのか。これらの解明には長期的な縦断研究が不可欠でしょう。
さらに、炎症性メカニズムについても、より詳細な分子レベルでの解析が求められます。脳膜でのウイルス存在が海馬の遺伝子発現に影響を与えるメカニズムの解明は、今後の重要な研究テーマとなるでしょう。
社会実装への道のり
この研究成果が実際の医療現場で活用されるまでには、まだ多くのステップが必要です。臨床試験による有効性の確認、治療ガイドラインの策定、医療従事者への教育など、包括的なアプローチが求められます。
しかし、精神疾患という人類最大の医学的課題の一つに対して、新たな治療戦略の可能性を示した今回の研究は、まさに「Tech for Human Evolution」の理念を体現する成果といえるでしょう。
【用語解説】
C型肝炎ウイルス(HCV)
RNA型ウイルスで、血液感染により肝臓に慢性炎症を引き起こす。世界で約7100万人が感染しており、肝硬変や肝がんの原因となる。直接作用型抗ウイルス薬により95%以上の治癒率を達成可能である。
脈絡叢(choroid plexus)
脳室内にある毛細血管と結合組織のネットワーク。脳脊髄液を産生し、血液脳関門の一部を構成する。脳の老廃物除去や分子交換の調節機能を担う重要な構造である。
統合失調症(schizophrenia)
幻覚、妄想、思考障害などを主症状とする精神疾患。発症率は約1%で、遺伝的要因と環境要因が複合的に関与すると考えられている。ドーパミン仮説が有力だが、近年は多因子説が主流。
双極性障害(bipolar disorder)
躁状態とうつ状態を反復する精神疾患。以前は躁うつ病と呼ばれた。気分安定薬による治療が中心だが、完治は困難で長期的な薬物療法が必要とされる。
海馬(hippocampus)
記憶の形成と保持に重要な役割を果たす脳領域。新しい情報の記憶化や空間認知に関与する。アルツハイマー病などの神経変性疾患で早期に障害を受ける部位としても知られる。
遺伝子発現(gene expression)
DNAの遺伝情報がRNA、タンパク質へと転写・翻訳される過程。環境要因により調節され、疾患の発症や病態に深く関与する。エピジェネティクス研究の重要な指標である。
直接作用型抗ウイルス薬(DAA)
HCVの増殖に必要な酵素を直接阻害する薬剤。従来のインターフェロン治療と比べて副作用が少なく、治癒率が飛躍的に向上した。治療期間も短縮され、現在のHCV治療の標準となっている。
【参考リンク】
Johns Hopkins Medicine(外部)
米国メリーランド州の名門医療機関。今回の研究を主導したサブンシヤン博士が所属
TriNetX(外部)
2億8500万人以上の患者記録を保有するグローバル医療データ分析プラットフォーム
Twist Bioscience(外部)
3000種類以上のウイルス検出を可能にする包括的ウイルス研究パネルを提供
Stanley Medical Research Institute(外部)
精神疾患研究のための脳組織バンクを運営する非営利機関
【参考動画】
【参考記事】
New Study Finds Evidence of Hepatitis C Virus in Cells Lining Human Brain(外部)
ジョンズ・ホプキンス医科大学の公式発表。研究概要と研究責任者のコメントを掲載
Neurological and psychiatric effects of hepatitis C virus infection(外部)
HCV感染の神経学的・精神的影響に関する包括的レビュー論文
【編集部後記】
この研究を読んで、皆さんはどのような感想をお持ちでしょうか。私たち編集部も正直、精神疾患の原因がウイルス感染にある可能性があるという発見に驚いています。
もしかすると、今まで「心の病気」として捉えられてきたものが、実は治療可能な感染症の側面を持っていたのかもしれません。この視点は、精神疾患に対する社会の見方を根本から変える可能性を秘めているのではないでしょうか。
皆さんの周りでも、精神的な不調を抱える方がいらっしゃるかもしれません。今回のような研究が進むことで、従来とは全く異なるアプローチでの治療が可能になるかもしれない—そんな未来に向けて、私たちも引き続きこの分野の動向を追いかけていきたいと思います。
読者の皆さんは、この研究結果をどのように受け止められましたか?