7月8日【今日は何の日?】「ジョルジュ・バタイユ死す」エロティシズム概念をVR・メタバース空間での身体性と結びつける

 - innovaTopia - (イノベトピア)

1962年7月8日、フランスの思想家ジョルジュ・バタイユが64歳でこの世を去りました。図書館司書という堅実な職業に就きながら、「人間は動物以上のものである」という命題を死の瞬間まで追求し続けた異端の哲学者です。彼が残した「エロティシズム」の思想が、デジタル革命の最前線で再び問われています。

VRヘッドセットを装着し、仮想空間に「入る」という行為。アバターを通じて他者と「触れ合う」という体験。これらは単なる技術的な進歩ではありません。人間存在の根幹に関わる根本的な変容なのです。バタイユが60年以上前に予見した「禁止と違反」の弁証法が、メタバース空間で新たな形を取って現れています。

動物を超越する人間:バタイユのエロティシズム論

バタイユの思想を理解する鍵は、彼の人間観にあります。動物は「瞬間」を生きる存在ですが、人間は「死を知る」存在です。この死の認識こそが、人間を動物から分かつ決定的な要因であり、同時にエロティシズムの源泉でもあります。

人間は死を知るがゆえに、死を「禁止」します。殺人の禁止、近親相姦の禁止、様々な性的タブー。これらの禁止によって、人間は社会的存在として秩序を維持しています。しかし、バタイユが発見したのは、この禁止が同時に「違反」への衝動を生み出すという逆説でした。

エロティシズムとは、この禁止への「違反」を通じて、日常的な個としての境界を破り、根源的な「連続性」を体験することです。それは一種の「死」の体験でもあります。なぜなら、個としての境界の消失は、自我の死を意味するからです。

重要なのは、この違反は禁止を完全に破壊するのではなく、禁止の存在を前提として成立するということです。禁止がなければ違反もありません。この緊張関係こそが、エロティシズムの動的な本質なのです。

身体の複製可能性:デジタル空間の存在論的転換

VR・メタバース空間の出現は、バタイユが前提としていた身体の一回性を根本的に変容させました。物理的な身体は唯一無二の存在ですが、デジタル空間では身体は「複製可能」「編集可能」「交換可能」な存在となります。

この変化は、エロティシズムの構造そのものを変容させます。従来のエロティシズムは、不可逆的な身体的行為を前提としていました。しかし、アバターを通じた性的体験は、「やり直し」が可能な体験です。データは巻き戻すことができ、アバターは何度でも再生成できます。

この「やり直し可能性」は、バタイユのエロティシズム概念にとって本質的な問題を提起します。真の「違反」とは、不可逆的な行為であるはずです。しかし、デジタル空間では、あらゆる行為が可逆的になります。では、デジタル空間での「違反」は、果たして真の違反と言えるのでしょうか。

アルゴリズムによる欲望の予測:新しい形の「運命」

メタバース空間では、AI駆動のアルゴリズムがユーザーの行動を予測し、「最適な」体験を提供しようとします。これは、バタイユが重視した「偶然性」や「予測不可能性」と真っ向から対立します。

推薦アルゴリズムは、ユーザーの過去の行動パターンから、その人が「欲しがるであろう」体験を先回りして提供します。しかし、これは本質的に反エロティックな行為です。なぜなら、真のエロティシズムは既知の快楽の反復ではなく、未知の領域への越境だからです。

この状況は、新しい形の「運命」を創出しています。アルゴリズムによって予測される行動パターンは、古典的な運命概念の現代版と言えるでしょう。そして、この「アルゴリズム的運命」に対する抵抗こそが、現代的な「違反」の形態となっています。

ハプティック技術と感覚の真正性

触覚フィードバック技術の発展は、仮想空間での身体性に新しい次元を加えています。ハプティック・スーツや触覚フィードバック・デバイスにより、仮想的な接触が物理的な感覚として体験されます。

しかし、ここで根本的な問いが生じます。ハプティック技術によって媒介された触覚は、「本物」の触覚と同じ意味を持つのでしょうか。この問いは、感覚の真正性という哲学的な問題を提起します。

バタイユにとって、身体的感覚は常に「死」の可能性を孕んだ有限な存在としての証明でした。しかし、ハプティック技術によって拡張された身体は、物理的な死のリスクを伴いません。この「安全な身体」は、バタイユのエロティシズム概念にとって何を意味するのでしょうか。

グリッチとしての至高性:システムの裂け目での体験

VR・メタバース空間において、最も興味深いエロティシズムの現れは、むしろシステムの「バグ」や「グリッチ」において見出されます。アバターの身体が意図しない形で変形したり、物理法則が破綻したりする瞬間に、ユーザーは既存の枠組みを超えた体験を得ます。

これらのグリッチは、バタイユ的な意味での「至高性」の現代的な現れと言えるでしょう。至高性とは、有用性の論理を完全に離脱した状態です。グリッチは、プログラマーの意図を超越し、システムの合理性を破綻させます。その瞬間に、ユーザーは計算可能な世界から、計算不可能な体験へと移行します。

グリッチは、メタバース空間における新しい形の「聖なるもの」かもしれません。それは、完全に管理されたデジタル環境において、管理の外部を垣間見せる窓なのです。

分散型身体とアイデンティティの流動性

ブロックチェーン技術やP2P型のメタバース空間では、中央集権的なプラットフォームに依存しない新しい形の集合的身体が形成されています。複数のプラットフォームにまたがって存在するアバターは、従来の個体性の概念を超越した新しい存在形態を示しています。

この分散型の身体性は、バタイユの「連続性」概念の技術的な実現と言えるかもしれません。個としての境界が曖昧になり、複数のアイデンティティが同時に存在し、相互に影響し合います。これは、固定化されたアイデンティティからの解放を意味します。

しかし、この流動性は同時に新しい形の疎外も生み出しています。アバターとしての自分と物理的な身体としての自分の間の乖離、複数のデジタル・アイデンティティ間の分裂、仮想的な関係性と現実的な関係性の混乱。これらは、現代的な実存的不安の源泉となっています。

監視と透明性:新しい形の禁止

メタバース空間では、従来の社会的禁止に代わって、新しい禁止の構造が形成されています。AI駆動のコンテンツモデレーション、プラットフォームの利用規約、アルゴリズムによる行動予測と制御。これらは、従来の社会的制裁よりもはるかに即座的で包括的な監視システムを構築しています。

この新しい禁止の構造は、「透明性」という名の下に正当化されています。すべての行動が記録され、分析され、予測されます。この完全な透明性は、バタイユが重視した「秘密」や「隠蔽」の余地を排除します。

しかし、真のエロティシズムは、この透明性への抵抗として現れるのではないでしょうか。暗号化された通信、匿名性の確保、監視の目を逃れる創造的な行為。これらが、現代的な「違反」の形態となっています。

死なない身体の実存的問題

VR・メタバース空間での最も根本的な問題は、そこに真の「死」が存在しないことです。アバターは「死ぬ」ことができても、ユーザーの物理的な身体は常に安全な状態に保たれています。

この「不死性」は、バタイユのエロティシズム概念にとって本質的な問題を提起します。死の可能性のない違反は、果たして真の違反と言えるのでしょうか。安全性が保証された至高体験は、果たして真の至高性と言えるのでしょうか。

しかし、この問いに対する答えは、おそらく単純ではありません。デジタル空間での体験が物理的な身体に与える影響、長時間の仮想現実体験による現実認識の変容、デジタル・アイデンティティへの過度の依存による実存的な混乱。これらは、新しい形の「死」のリスクと言えるかもしれません。

新しい肉体性:サイボーグ化する身体

VR・メタバース技術の発展は、人間の身体そのものを変容させつつあります。長時間のVR使用による身体感覚の変化、ハプティック・デバイスとの一体化、脳波インターフェースによる直接的な神経接続。これらは、人間の身体がテクノロジーと融合していく過程を示しています。

この「サイボーグ化」は、バタイユの身体概念に新しい問題を提起します。テクノロジーと融合した身体は、もはや「自然な」身体ではありません。しかし、この変容した身体もまた、新しい形のエロティシズムの場となりうるのではないでしょうか。

人工知能との関係性:機械的他者とのエロス

AI技術の発展により、メタバース空間には「人工的な他者」が登場しています。AI駆動のアバターやボットとの相互作用は、従来の人間関係とは根本的に異なる性質を持ちます。

これらの人工的な他者との関係性は、バタイユのエロティシズム概念にとって新しい挑戦を提起します。機械的な他者との間に、真の「連続性」の体験は可能なのでしょうか。人工知能との「違反」は、人間同士の違反と同じ意味を持つのでしょうか。

未来への展望:新しい人間性の模索

バタイユの死から60年以上を経た今、彼のエロティシズム概念は、VR・メタバース空間における身体性の問題を通じて、新しい形で蘇っています。しかし、これは単なる過去の思想の再生ではありません。デジタル技術の発展は、人間存在そのものの根本的な変容を促しています。

私たちは、新しい身体性、新しい他者性、新しい欲望の形態を模索しています。バタイユの思想は、この探求において重要な手がかりを提供しています。しかし、最終的に必要なのは、彼の思想を超越した新しい人間性の哲学です。

メタバース空間での身体性の探求は、まだ始まったばかりです。そこで展開される新しい形の禁止と違反、連続性と不連続性、生と死の弁証法は、人間という存在の可能性を拡張し、同時に新しい危険をもたらしています。

バタイユが残した問い「人間とは何か」は、デジタル革命の時代においても、依然として私たちに向けられています。VR・メタバース空間は、この永続的な問いに答えるための新しい実験場なのです。技術の発展とともに、私たちは人間存在の新しい可能性を探求し続けなければなりません。それは、バタイユが生涯をかけて追求した「人間は動物以上のものである」という命題の、現代的な継承なのです。

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投稿者アバター
さつき
社会情勢とテクノロジーへの関心をもとに記事を書いていきます。AIとそれに関連する倫理課題について勉強中です。ギターをやっています!

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